高杉晋作名言
高杉晋作が藩校の明倫館で学んでいた頃の詩とされる
自笑
百年一夢の如し
何を以てか歓娯(かんご)を得ん
自ら笑う平生の拙(せつ)
区々として腐儒(ふじゅ)を学ぶ
松下村塾
訳
人の一生は夢のようにはかない。そんな人生をどうすれば、喜んで楽しく過ごせるだろうか。私は、日頃のへたな生き方を自ら笑うしかない。
毎日毎日、役にも立たない古臭い儒学を学んでいるのだから。
<コメント>
高杉晋作さんは、明倫館での授業は退屈だったようですね。その思いが、やがて師となる吉田松陰先生の松下村塾へと導いたのですね。
高杉晋作プロフィール
高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日) - 慶応3年4月14日(1867年5月17日))は、日本の武士・長州藩士。幕末の長州藩の尊王倒幕志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、幕末長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は東行。 変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。贈正四位。
長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士 高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男としてうまれる。
10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学、剣術も学ぶ。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には松陰が安政の大獄で捕らえられ処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、まさと結婚。
文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船、江戸へ渡る。8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、54年からの民衆反乱である太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。
上記コンテンツはウィキぺディアフリー百科事典より引用しました
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