巨人引退セレモニーでファンにあいさつ
巨人のエースナンバーを守ってきました。
18番、桑田真澄の野球は心の野球です。
昨年オープン戦で、右足首じん帯を断裂して
「これであきらめるなら、お前の思いはその程度なんだよ」と、神様に試されているような気がする。
リハビリ中の自宅で
人間は死に向かって生きている1日過ぎるごとに死に近づく。僕はもう40歳だから、すでに半分は来ている。
だったら、やりたいことをやらないと、うそじゃないかな。
引退を決意して
小さいころから野球にいっぱい幸せをもらい、いい思いをさせてもらった。
ちょっと、ゆっくりしたい。
上記コンテンツは毎日新聞より引用しました。
<コメント>
桑田真澄さん、名言ファイターは覚えています。あのドラフトの日を。巨人は、清原さんを指名せず、一位に桑田さんを選んだ。
同じPL学園の仲間だけに、複雑な思いがあったと思います。
あれから20年・・・。
私の好きな野球選手のひとりです。引退を決意されたとか。
数々の勇姿をありがとうございました。
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桑田真澄さんについて
高校時代から清原和博ともにクリーンナップを打ち、プロに入ってからも打撃には定評がある。その為色々なエピソードが生まれている。 守備のうまさにも定評があり、幾度となくゴールデングラブ賞を獲得している。バントの名手川相昌弘をもってして「バントが一番決めにくい投手」と言わしめた。
プロ入り前
PL学園高校出身。高校野球で活躍し、同期の清原和博とともに「KKコンビ」と呼ばれる。高校野球激戦区の大阪府から甲子園に出場可能な5回全てで出場。そのうち4度決勝に進出し1年夏と3年夏の2回優勝。1983年、1年生で背番号「11」ながら夏の甲子園に同校の事実上のエースとして出場。水野雄仁を擁して3大会連続甲子園優勝を目指した「やまびこ打線」の池田高校を準決勝で7対0と破り、決勝では横浜商業を3対0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手の記録を立てた。1984年の2年生での春夏の甲子園はいずれも接戦で敗れ準優勝。1985年、3年生の春はベスト4、夏は決勝戦で宇部商を下し優勝。甲子園での通算勝利数は歴代2位で学制改革以後は1位。打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原和博に次ぐ歴代2位の6本である。高校通算25本塁打。5回の大会のなかで桑田・清原のいたPL学園を完璧に抑えたのは、高校3年春の甲子園準決勝で対戦した渡辺智男のいる伊野商業だけだった。
1985年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。桑田は早稲田大学進学を希望し他球団が指名を敬遠していたことから、巨人との密約が囁かれる。桑田自身は密約を否定した上で当時のドラフトでは進学を示唆しながらもプロに入団した選手は自分以外にも大勢いると弁明している。
プロ入り後
1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。2年目の1987年7月8日、札幌円山球場での対広島戦で、自らの3ラン本塁打とタイムリーヒットでチームの全4得点をたたき出した上で、プロ初完封勝利を挙げる。この試合は桑田のワンマンショーと言われた。15勝6敗の成績を挙げ、2.17で最優秀防御率のタイトルに輝き、先発投手を賞する沢村賞に選ばれた。藤田元司独特の先発理論から斎藤雅樹、槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。この年より1992年まで6年連続2桁勝利。最も輝かしい黄金時代だったと言える。
1990年には登板日漏洩疑惑が持ち上がった。事実ではなく、制裁はなかった。疑惑の調査において桑田は金銭と高級腕時計の受領があったことを球団に虚偽報告し、後に虚偽報告をしたことを申し出た。これがプロ野球選手の統一契約書第17条(模範行為)に違反するとして、球団から謹慎1ヶ月と罰金1000万円の処分を受けた。 1994年には、10.8決戦で、7回からリリーフ登板。3回を無失点に抑えて胴上げ投手となる。
1995年6月、対阪神タイガース戦において、湯舟敏郎選手の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に、右肘側副靱帯断裂の重傷を負った。手術のため渡米。1995年残りシーズンと1996年を棒に振り、1997年にカムバックした。カムバック時のマウンドに跪き、プレートに右肘をつけたシーンは有名で、この後復帰した投手やシーズン初登板の投手が同じ姿勢を取る姿が見られる。復帰した同年は10勝、1998年には最多勝争いに加わる16勝を挙げたが、手術前のようなボールのキレは見られず、以後投手としての新たなスタイルを模索して精彩を欠く。この間、先発、中継ぎ、抑え、敗戦処理とジャイアンツでの起用方法も迷走を続けた。
2001年オフ、共に巨人の一時代を築いた斎藤、槙原、村田真一が引退。自身も引退を決意する。しかし、長嶋茂雄に代わって巨人監督に就任した原辰徳から「来年も一緒にやろう」と声を掛けられ、現役を続行。 2002年、古武術を応用した独自の投球観を実践し復活。4年ぶりの二桁勝利、15年ぶりの最優秀防御率のタイトル獲得でチーム日本一に貢献した。15年の期間を経ての主要同一タイトル獲得は投手としてプロ野球歴代1位の最長記録。 2003年以降は再び精彩を欠くようになり、2005年は登板がなかった1996年を除いて初めてシーズン0勝に終わってしまう。このためシーズン中盤頃から引退が囁かれるようになったが、正念場の試合では先発として最低限の仕事を果たしたこと、若手の手本足りえる存在であることなどが考慮され2006年も現役続行が決まった。
2006年9月23日、球団のホームページにある自身のページで今シーズンで退団を示唆する内容の執筆をした。現役を引退するのか、他球団で現役を続行するのか、動向が注目されていたが、11月2日、2007年シーズンよりメジャーリーグに挑戦することを表明した。
巨人のユニフォームでの最後の日となったのが11月23日、東京ドームで行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ2006」、イベントの最後に「18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。今はただ感謝の気持ちしかありません。(略)…さようなら、そして21年間本当にありがとうございました」と挨拶し、21年間在籍した巨人に別れを告げた。
上記コンテンツはウィキぺディアフリ事ー百科典より引用しました。
タグ:桑田真澄



私も昨日ブログに桑田選手のことを書きました。
いろいろあったみたいですが、活躍していたときより、今のほうがいい顔をしていると私は思いました。
桑田選手の言うとおり、私たちはいつも神様に試されているんだと思います。
私も彼のように、泣き言を言わず、他人の評価など気にせず、対自分自身で頑張っていく姿に少しでも近づける様、頑張りたいと思います。
野球に限らず、プロなら努力するのが当然かもしれませんが、桑田真澄さんはかなりの練習量をこなされたと聞いています。
私は、彼のひたむきさに好感をもっていました。
桑田さんの記事をUPした後でアキバの女社長さんの記事を拝見して、私は、かぶったと一瞬思いましたが、なんかうれしいです。
おっしゃるとおりだと思います。
一人の人間として、私達のお手本とすべき所をたくさんもってらっしゃる方ですよね。
その桑田さんに近ずきたいとおしゃったあなたも、おそらく、ひたむきで努力家なのでしょう。
名言ファイターも応援します。